はじめまして。管理人の首藤哲也です。

ここでは私の職歴を中心に自己紹介させて頂きたいと思います。

私がどんな仕事を経験してきたか、求人にどうかかわってきたか、それをお話したいと思います。

 

事務機メーカーで機械設計

まず最初に私の簡単な略歴をお話します。

●大学卒業後、京都の事務機メーカーに就職する。そこで13年間開発部設計課に在籍し機械設計を担当する。

●その後九州の実家にUターン転職。凡そ10年間に渡って半導体の製造設備、検査機を開発製造する。

●更に同じ会社の半導体量産工場にて設備保全、生産技術の責任者として10年間ほど勤務する。

●合わせて20年間の間に設備保全要員の中途採用、新卒採用、合わせて500人ほどの面接を行う。

●50代前半で早期退職する。

●独立法人中小企業基盤整備機構の「新現役パートナー」に工場の検査ライン診断・アドバイザーとして登録、3年間活動する。

●工場の検査ラインをテーマにしたセミナー講師、著書の執筆などを行う。

これがざっと私の略歴です。

 

設備保全の求人面接を行っていたのは九州にUターン転職してからの20年間です。この間は単に採用にかかわっただけでなく、新人教育や社内の設備保全の組織づくりにもかかわっていました。

では、略歴の中から、京都時代とUターン転職した後の20年間について、もう少し詳しくお話したいと思います。

 

京都
京都は私のあこがれの地でした

 

私が大学を卒業して就職したのは、京都にある中堅どころの事務機メーカーでした。その会社で私は13年間、開発部設計課に所属し機械設計を担当していました。

社内には加工、塗装、組み立て工程があり、新入社員当時に各工程を実習で回りました。特に加工工程での実習はその後私の開発業務に大変役に立ちました。

 

機械設計する上で加工の現場を知っていることは何よりの強みとなりました。

新人で図面を描き始めたころは、現場の加工者からよく、

「こんな図面でモノが作れるか!」

と怒られました。

どうやっても加工できないような図面を描いていたのです。

 

しかし、自分で加工現場を回るようになって、そんな指摘を受けることは全くなくなりました。図面を描きながら加工手順が頭に思い浮かぶようになったのです。

つまり加工者の立場で図面が描けるようになりました。

 

ノギスと図面

 

この京都での13年間の機械設計業務によって、しっかり機械要素、機械設計を学び、それが後の設備保全業務にも大いに役立つことになります。

 

ちなみに、私が入社3年目に初めて開発をメイン担当した事務機は、販売から30年以上経った今でも売れ続けています。その会社の販売サイトを見ると、少しだけデザインが変わっていますが、ほぼ原型を残したまま販売されているのです。

これは何とも嬉しく、誇らしい気分です。

 

Uターン転職して半導体メーカーで設備開発

13年間京都の事務機メーカーで機械設計をやった後、私は実家の事情で九州にUターンします。

当時の九州はシリコンアイランドと呼ばれ、大手の半導体企業が各地に工場を作っていました。当然、その大手の企業と取引する地元の中小企業も多数存在していました。

 

私はそんな中小企業の1つにUターン転職しました。従業員が300人程度の中小企業でした。

その会社では大手の半導体メーカーのLSI製造を行うと同時に、それを製造する設備、検査する設備の開発製造も行っていました。

 

基盤

 

私はその会社で設備の開発、製造の責任者となりました。入社即、いきなり責任者です。私自身は設計業務の現場で働きたかったのですが、会社の事情でそうもいかず、真っ先に行った仕事はメカ屋の求人、採用でした。

 

機械設計者、加工、組み立て、保全のできるエンジニアを採用することが初仕事だったのです。つまり私は自分自身が転職を経験したすぐそのあとで、求人、採用の人事を担当することになりました。

当時、その会社ではメカエンジニアの求人、採用ができる人事担当者がいなかったのです。

 

元々が電気、電子、ソフト専門の会社でありメカ部門は100%外注していました。そのメカ部門の立ち上げスタッフ、責任者として私が採用されたのです。従って、メカ部門立ち上げに必要なスタッフの採用も私の仕事となりました。

 

でも私は京都時代に人事など全くかかわったことがなく、最初は本当に苦労しました。面接をやって採用しても大外れの採用ばかり繰り返し、何て自分は人を見る目がないのかと、嘆く日々を送りました。

 

給料日の次の日に消えてしまうヤツ、口先ばかりで全く手が動かないヤツ、引きこもりで会社に出てこないヤツ。

やっとまともな採用ができたのは1年も経った頃です。段々と私にも面接でエンジニアを見る目が出来てきました。そこからは優秀な人材も次々に採用できるようになりました。

 

私は地元の就職・転職面談会にも参加し、時には関東まで足を延ばしました。

そうしてスタッフを集め、LSIの検査機を大手のメーカーから受注し日本国内はむろん、ヨーロッパ、東南アジアに広く輸出することになったのです。

 

むろん、私も人事の仕事ばかりやっていた訳ではありません。最初の頃はスタッフが揃わず自ら図面を描いたり、加工、組み立てもやっていました。その上私は営業活動も行い、関東の大手半導体メーカーへ足げく通ったものです。

京都の13年間は機械設計のみでしたが、九州に戻ってからの10年はまさに目まぐるしく、何から何まで全部自分で担当することになったのでした。

 

この時期に私が中途採用で面接したエンジニアは凡そ200人、新卒採用の面接は100人近くいたと思います。そのため、私はすっかり求人、採用についても自分なりのノウハウを持つようになっていました。

何事も経験してみるものです。

 

半導体量産工場で設備部門担当

さて、私は半導体の検査機を開発する仕事から、次に半導体の量産工場で設備部門の担当となりました。ここでまた10年ほど勤務することになります。

 

半導体量産工場

 

ここでの仕事はこんな感じです。

1)自社工場で使用する製造設備・検査設備の開発製造。

2)他社設備の導入、立ち上げ。

3)工場内設備の保全業務(維持管理)

4)設計、生産技術、保全担当スタッフの採用と教育。

 

この業務の中で最も大変だったのは、3番の設備保全です。何しろ半導体の量産工場ですから、24時間363日稼働です。

いつ、何時設備が故障したりトラブルが起きるか分かりません。生産がひっ迫していれば夜中だろうが祝祭日だろうが関係なく呼び出しがかかります。

 

むろん、シフト勤務で常に現場にスタッフはいるのですが、重大トラブルは彼らの手におえないことも多々発生するのです。また、台風が接近すれば停電や交通網不通などの万一の事態に備えて工場に24時間缶詰です。

それだけに保全スタッフにはできるだけ優秀な、どんな事態にも対応できる人材を求めました。

ここでも私は新卒・中途社員の採用、派遣社員の採用にかかわり、毎週のように面接を繰り返していました。

 

何しろ最初の10年で面接の目は養ったつもりです。保全要員の採用に関してはそれほど大きな失敗もなく、優秀な人材が確保できたと思っています。

ただ、何も問題がなかったかと言えばそうではありません。やはり思いもよらぬ結果になってしまった採用も中にはありました。

どこまで行っても人の採用とは難しいものだとつくづく思いました。

 

設備保全の面接500人・転職の難しさ

京都での13年間は機械設計者として自分の仕事だけに没頭する日々でした。それが九州にUターンしてからの約20年間は、ガラリと仕事が変わりました。

とにかく優秀な人材の求人、採用、教育に明け暮れた20年だったと言えます。面接した人数は延べ500人近くになるはずです。

 

面接
延べ500人を面接しました

 

自分が実務を行うのではなく、部下にやらせる、そのための求人だったのです。

 

中小企業ならではの苦労もありました。大企業のようにじっと待ってるだけでは優秀な人材は集まらないのです。大きな求人面談会に参加するのはむろん、日頃から人材派遣会社や転職サービス会社の担当者と密に連絡を取り合っていました。

私は優秀な人材に大企業にはない中小企業だからこそ出来る可能性、やりがいを訴え続けました。本当に優秀な人材が我が社に入社してくれた時の嬉しさといったらありませんでした。

 

今、振り返ってみれば設計者の採用よりも設備保全の採用の方が苦労した感があります。何より、設備保全の希望者が少なかったのです。やはり量産工場の設備保全の難しさ、厳しさが応募をためらわせるのでしょうか。

確かに厳しい一面があるのは事実です。それは設備を安定稼働させ工場の生産を支えるという大きな責任ゆえとも言えます。

 

それだけにやりがいもまた大きな仕事だと私は思います。そんな設備保全のやりがいを共感してくれる人材こそ、長年私が求め続けていた人材だったと思います。

かなり支離滅裂な話になってしまいました。長々と私がこれまで経験してきた職歴をお話しさせて頂きました。

このページで、私がどんな人間か、あなたに少しでも知っていただくことが出来たなら幸いです。